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「―っ!」
まだ日も昇らず薄暗い空模様の頃、徳川家康は目覚めた
そろそろ枯れ葉の落ちる季節であるというのにもかかわらず、家康の体はじんわりと冷や汗を帯びていた
「……」
弱い小国・三河の大名であった家康は、絆を信念に掲げる力強き青年へと育ち、
約一か月前、日ノ本が東西に二分された戦い、関ヶ原にて東軍総大将として、西軍総大将であり、友であった石田三成を討った
結果、家康は天下人となり、以前のような大きな戦は無くなった
小さな小競り合いこそあれど、概ね平和そのものであった。戦により物資、文化的に優劣の出てしまった領土の均等化、
関ヶ原の戦により生じた敗者・西軍の武将の処断や雇用する際の待遇調整
それ以前から続くお家同士の因縁、確執。またそれから起こる争いの調停など
徳川家康というと、戦働きの印象が強い
が、自ら薬の調合をしたり、(幕府となる前からも)積極的に内政に参加していたりと、どちらかといえば頭脳労働派であった
当然将軍となった家康の承認無しでは行うことが出来ない事柄も多く、
毎日山積みになるほどの書に目を通し、その確認・変更・実行の有無をしなければならない
つい先月までは自ら最前線に出て戦っていた家康がそのような重労働を行うことを、
以前から彼を慕い共に歩んできた三河の者はそれを良しとはしなかったが、家康個人としてはこれでよかったのだと思っている
働いている忙しさで、何かを悩む暇すら無くなるのだから
家康はよく夢を見るようになった
三成の本陣へ自分が乗り込み、三成を殺害するまでの流れを幾度も幾度も繰り返し、
最後は必ず、動かなくなった三成を前に泣くことしかできない自分がいる、そんな過去と全く同じ夢を
人とは選んだはずの選択肢を、何度も再考してしまう生き物である
家康自身も薄々感付いてはいる
家康はまだ、関ヶ原の戦いを取り巻くモノに囚われている
自分は三成に対する言葉を、心のどこかで諦めていたのでは、
それが無ければ、もしかすると三成を殺めずに済む道もあったのではないかと
「…まずは、顔でも洗って来よう」
不毛な考えを振り払うため、自分に言い聞かせるようにして、家康は部屋を出た
「…それでな、その時に鶴姫殿が――」
「…白い、鳥さんが…?…、そう……」
様々な仕事を終え、家康は一人の女性と話していた
彼女はお市、戦乱によりなにもかもを失った戦の犠牲者である
大切な人を失った衝撃から自身を守る為、ほぼ全ての記憶を失い、第五天魔王として崇め奉られ、
言われるがままに各地を彷徨っていたところを家康に保護された
現在織田家はお市一人のため、家康が後見人となっていて、自主的に彼女の話し相手となっている
お市と交流を繰り返すうちに、家康はお市の様々な面に気が付く
以前よりも更に弱弱しいが、喜怒哀楽があることだったり、
人を動物やモノに例えるようになり、その分人の機微に鋭くなっているところだったり
「やはり、ワシもその考え方を―」
「…光色さん、光色さん」
「…ん?」
お市がこちらの言葉を止めるほどの関心を何かに向けているのは珍しい
家康はそう思いながら自分の話を中断し、彼女の言葉の続きを待つ
「……その花…」
「ああ、少しばかり拝借してきたんだ」
「…綺麗な…、曼珠沙華……。とってもあかい…」
お市は家康が持っていた数輪の曼珠沙華を虚ろに眺める
家康は、お市を保護した金ヶ崎の地でもこの花が咲いていたことを思い出し、
特別な思い入れがあるのだろうと思った
人に関する記憶が無いだけで、物に対する記憶は残っていることもある
「何処へ…持って行くの…?」
「?」
「その花…家を、……燃やしてしまうから」
お市が哀しそうな、何かに怯えるような顔をしている
全てを失った原因である本能寺の焼き討ち
それを間近で見たせいか、お市は炎を酷く怖がる
そういえばこの花は見た目や性質が独特であることから特殊な迷信が存在している花であったと、
家康は曼珠沙華の花をまじまじと見つめた
迷信の中には、持ち帰ると家が火事になるやら、摘むと死人が出るなどと物騒な類のものがある
「…大丈夫だよ、お市殿。この花はある場所に植え替える為に持って行くんだ」
「……? …謝りに、行くの?」
「……」
未来を予見する鶴姫とは違う見透かされ方に家康は内心驚いていた
「再会…、悲しい思い出……。それに…」
―想うはあなた一人
お市と家康の声が重なると同時に、家康は苦笑した
恐らくこの様子ではお市には隠しきれていなかったのだろう
「この花は、人の手の平みたいね……。 どれだけ大きく広げても、指の隙間からぽろぽろと零れて落ちていく」
お市が、自分の手を見て呟く
家康はそれを見て、ただ一人の想い人に、彼の愛した『世界』に思いを馳せた
形こそ歪でありながら、その実儚さと美しさを備える
そんな人らしい矛盾を持つ、眩しい『世界』の中心へと
「…光色さん」
「……お市殿?」
はっと気づき、家康がお市を見ると、彼女の周りには黒く、ただ黒い『手』があった
お市を決して傷つけることはなく、見方を変えれば守っているようにも見えるその手を
家康はかつての彼女の伴侶と重ねて見ていた
彼女は、そっと歌うように家康に語りかける
「…泣いては、いけないわ…――に、怒られてしまうもの」
『手』が響かせる雑音に、揺らめきに紛れて消えてしまったが、家康の目に映ったお市は
間違いなく「 」が妻・お市の姿であった
「…?! お市殿…、っ」
「そのお花は、不幸の花ではないの。良い事の兆しに降る、幸せの花、天(そら)から降る、赤い花」
「降って、昇って、また降って…、それでも市は、市が想うのは」
―貴方様だけ、市を叱って、救ってくれた…ながまささまだけ…
桜の花がふわりと開くように、彼女は微笑んだ
「だから、次も傍に居られるように、市も願うの」
市がそう言うと、黒い『手』が彼女の体を包み込み、そして静かに闇へと沈み始める
普段のそれとは違うお市の様子に、家康は咄嗟に手を伸ばす
「! 待ってくれ、お市殿……っ!」
「ありがとう、光色さん でも、それは闇色さんのためのものよ
闇色さんも光色さんと同じなの わからなくて、哀しんでいるの。貴方まで……見失ってはいけないわ」
―もう、市は大丈夫だから
「さよなら、光色さん
曼珠沙華の本当の花言葉は…」
『また、会う日を楽しみに』
「すまんな、来るのが大分遅れてしまった」
「あ、秀吉公と半兵衛殿、それに刑部には先に参っておいたから怒らないでくれよ?」
「とりあえず、国の方針は固まって来ているよ、…いや、秀吉公なら脆弱だと言いそうだな」
「半兵衛殿が兵達の鍛錬を見たら、もっと効率的な方法があるだろう、とか言われるかもしれん」
「一部の農民上がりの武士は農民暮らしに戻ったし、刑部なら平和ボケだと言うのかもしれない」
「しかしな、ワシはそれでいいと思うんだ」
「脆弱な方針も、独眼竜のような変わり者にかかれば、柔軟な基盤となる」
「武田の若虎のように、曲解しながらも成長する勇士だって多くいるだろう」
「竜の右目や巫殿のように、戦だけでは計れない他分野の逸材もいる」
「何より、…人が力を持つのは最低限でいいと思うんだ 強い事は悪い事ではない、
しかし、それで見えなくなるもの、気づかなくなるもの…失ってしまうものもある」
「あー……、いかんな。改めて話そうとするとつい長くなってしまいがちになる」
「ワシが言おう思っていたことはな、お前に感謝している、という事だ」
「昔のワシは口先だけは達者で実力の伴わない、そう、ガキだったんだ」
「忠勝や家臣達の力に頼りがちで、我ながら不甲斐ないとすら思っている」
「だが、秀吉公達の姿を見て、変わらねばと思えた」
「世間知らずだったワシに広い世界を見せてくれたのは紛れもなく豊臣軍の皆だったのだから」
「だからこそ、自分ももっと強くなって、世を治めねばと立ち上がる勇気を得る事が出来た」
「しかし、ワシは視野が狭かったんだな。心の何処かでお前と和解できるのかも知れないと、淡い期待も抱いていたんだ」
「……この選択に後悔はない。けれど、心残りは有る」
「戦無き世であらば、貴殿と共に道程を歩み行けたのだろうか、その僅かばかりの寂寞に心は容易く疼く」
「ワシらしくもないな。だが、らしさをかなぐり捨てられるほどに、本気だとも思う」
「今生、此処より徳川家康は、皆を照らす陽となる為己を捨てる」
「そして次に生まれ出ることがあるのならば、」
、また逢いたい
人を捨てたモノが望んだ、たった一つの、されど大きすぎるわがまま
2016/05/24