Short story

    ざあざあ、と責めるように止まない雨音。独特の湿っぽさと埃具合だけではない、どことなく暗い雰囲気はこの場所が異質。或いは自分達が異質なものであると告げるようで、少なくとも己――牧野慶には居心地の悪さが漂う。時刻は、二十一時半を過ぎた頃。目を閉じて視界を盗み見るようなことをしなくとも、既にこの二十七年前の宮田医院に多数の蜘蛛屍人が入り込んで――いや、還ってきていることは確かだろう。幸いにも彼らはその機動性と聴覚を特化させる代わりに、扉の開閉というごく普通の人間らしさを欠如させていた。この部屋――診察室と、病棟を繋ぐ廊下の二つはこちらから施錠済である。今回は、時報もといコールは無いだろう、とも思った。

    本来、多くの確率の中で言えば。自分が先に診察室に居る二人へ合流する流れだ。19時過ぎ。しかし今回は、その一種の安全地帯の扉を開けた時、一人しか居なかった。現代の院長――宮田司郎だ。自分を視界に入れても、特に動じない姿勢。まさかと思った拍子に、彼が先に口を開いた。
    「……牧野さんですか。また、娘さんとはぐれたので?」
    ――その点に関してだけで言えば、”今回"は俺も同じような状況ですが
    「宮田さん……。覚えて、いるのですか……?」
    「ええ。と言っても、あなたと同じ内容かは不明瞭ですが。何しろ、ここは長いですから」
    気が狂いそうなほどに、ね。そう最後に付け加えて、皮肉げに笑ってみせる。少なくとも、今の台詞回しをする辺り。翌日の明け方程に彼自身のする所業は記憶しているみたいだ。それに対しやはり自分は、狂ってる、と言い放つのだろうか。悶々とどうしようもない、これからの行動の道の先を想像している間にも宮田は古ぼけたカルテに目を通していた。と言っても、やり直しの記憶はそこにも有るのか。探るというよりも、再確認の意が強いように思える。
    「……あの、恩田さんは……」
    「それは美奈の方ですか、妹の方ですか? 美奈は恐らく向かいの倉庫辺りに居るだろうし、後者は今のところ見かけていない。それどころか、視界に引っ掛かりもしていませんよ」
    その冷たい言い放ち方に、牧野はそうですか、としか返すことが出来なかった。本来の流れからの恋人である筈の美奈を語った宮田の横顔が、恐ろしかったから。手に万年筆でもあれば、音を立てて折ってしまっていたのではないかと思うほどに、強い苛立ち、ないし憎悪を感じたのだ。見知らぬ女性とはいえ、美奈の妹である理沙は良くも悪くも雰囲気をかき回してくれていたことを痛感する。無遠慮に自分と宮田の顔を見て、双子かどうか正直に聞いてきた。そんなくだらないことが、沈黙を知らずのうちに無くしていたのだ。今は、無音が耳に痛い。

    本人なりの法則で纏められたであろう書類を引き出しに仕舞う宮田。椅子から立ち上がった彼は、使われていないベッドへ座り込み、そのまま横になった。
    「……少し仮眠します。屍人が来でもしたら、置いて行って構いませんよ」
    眠りは浅い方なので、起きられるでしょうし。そう告げて宮田は眠りへと入っていった。雨滴が窓を赤く彩る。見慣れた筈の空が、急に違うものに変えられているようで、いたたまれず、されど打破する術も思考も牧野には無かった。しばらくして、小さく咳き込む音が聞こえる。宮田だ。埃っぽい布はやはり快適ではなかったのだろう。しかし、疲れからか、眠りが途切れることはなかった。なんとなく、そう、なんとなく。牧野は宮田の側へ、椅子から立ち上がり、静かに歩み寄る。薄灰色になり、明らかに咳の理由であろう枕をどかし、それより更に枕元側の空いたスペースへ座った。すると、寝心地が悪くなったのか、偶々深い眠りにおちている時間だったのか、宮田は牧野の太ももへと頭を寄せ、ぽすり、と置いてしまった。運が良かったなあ、なんて。緊張感の無い頭で、牧野は心中でそう思う。実際、宮田の眠りが浅いという発言は本当で。今までであれば理沙が姉を探しに、と椅子から立ち上がる動作だけで目を覚まし、遠回しに引き止めることも有ったのだから。これも記憶を持ち越した結果なのだろうか。牧野はこの3日間であまり人と出会わない方であると自覚している。宮田は先程の邂逅で自分や恩田姉妹含め、須田、安野という外部の男女と出会うことも有るらしい。それだけ生存者が多いのか、牧野が人と会わない道ばかり知らずのうちに選んできたのか。それは未だにわからない。宮田はともかくとして、牧野は"記憶を引き継いだ生存者"を宮田しか知らないのだ。理沙は違和感こそ感じていたが、記憶の確信まではどうにも至らない。知子も同じように曖昧なままが多かった。3日間で生きられた時間の長さだろうか。むごい考えではあるが、それくらいしか思いつかなかった。その中、記憶を持ち越した二人にもたらされたのは"疲れ"。他の人であれば、状況を打破しようといった"希望"や"積極性"に繋がるのであろうが、自分たちは違った。今更前を向けるほど、若くもない。結末を反芻して、どっと押し寄せるような疲れが押し寄せるだけだ。そうして、互いがある程度認識していることを分かりつつ、本流へと引き戻され、繰り返すばかり。細部が違えど、最後には宮田が牧野を殺すのだ。時折は逆転することも、そもそも交差点で出会えないことすらも有るが、どちらにしろ生き残る未来など無い。意識が戻れば、また祝詞を上げる牧野として、失敗を確約されている儀式へ戻るだけだ。しかし、今回は一つだけ違うことを、牧野は起こした。宮田へ、嘘をついたのだ。今まで隠し事をした事が無いわけではない。しかし、問いに対して偽りの答えを返したのは、この悪夢の中では初めてであった。宮田は、記憶を有した上で、牧野へ尋ねる。
    ――3日目、終わりまで生きたいと思っていますか?
    牧野へ直接死を手向けた多くの元は宮田だ。だからこそ、諦めや陰りを見せれば、その記憶を有しているだろうと推測するための罠だと、少なくとも牧野は思った。
    ――わ、私の、生きたいと思っている気持ちは変わっていません。失敗した儀式の司祭として、罪を贖わなければなりませんから……。
    父のように、とまでは言えなかった。死ぬことは今でも怖い。死を以って償うことは、身体が音を立てるほど震えても耐え切れないほど、恐ろしいから。せめて、生きて苦しまなければならないという答えだけは真実だ。それしか、肩書だけの自分に出来ることなど無いのだから。けれど、生きたい、という部分は赤い嘘が滲んでいた。
    彼は知らない事だろうが、先程言った殺される、というものには若干の語弊が有るのだ。確かに、宮田に銃で身体を撃ち抜かれて、牧野は一度死を迎える。しかし、それからしばらくの時間が経ってから、誰とも知られず、誰も知らずの内に不完全な形としての生き返りを迎えているのだ。殺されてはいるものの、屍人にならず、されど死体になることもなく、牧野はただ其処に在るだけ。点滅する赤い光がちかちかと照らし、血のような色と冷たいコンクリートの色とが連続する空間に独り、在るだけの終わりなのだ。けれど、その中で初めて、宮田という片割れについて思うことが出来た。黒衣に袖を通し、揺れる簡素な首飾りを身につける彼。自分が背負いたくもないものを、よりによって、弟にさせてしまうとは。凛とした佇まいは、自分よりもよっぽど求導師らしい出で立ちで。だからこそ、纏わないままで居て欲しかったと、そうも思った。けれど、それを口にすることも、歩み寄ることも、手を伸ばすことも、もう出来ない。無力を改めて噛み締めるだけの終わり。
    しかし、それよりも問題となるのは、逆であった場合だ。何故か宮田がそのまま自らの頭を銃で撃ち抜いた時、真の求導師としての役柄をするのは自分だ。これが他の人間、他の役で有れば代役など立つはずも無いだろうが、皮肉なことに双子であるが故に許される。演じることが可能となる。何かに突き動かされるように、訪れるはずも無い場所を歩き、出会い、そして命を擲つことになった。そうなったとしたら、彼は、宮田はどうなったのか。屍人としての彼には出会っていない。会うことが怖くて、屍人の巣へは近づかない道を選ぶようにしている。姿の変わった彼を、見たくはなかったから。
    「……」
    自分よりやや明るい黒髪が膝の上で小さく揺れる。手を伸ばして触れてみれば、見た目よりも柔らかい感触をしていた。そのまま牧野は、中心部から毛先へ流れに沿って宮田の髪を撫でる。傍から見ても、おずおずとぎこちない触り方であったに違いないが、それも仕方ない。牧野は誰かに頭を撫でてあげたことも、撫でられたことも無いのだから。この繰り返す前の村では、求導女である八尾に絶対的に依存していた。幼い頃から養父と自分を見守り、支えてくれていた彼女ではあったものの、頭を撫でたり、抱きしめたりはされた覚えがない。言葉こそ脳に溶け入るような甘言であるが、行動として甘やかされたことは数えるほどしか無かった。
    誰かの親が他の子供にしているのを、見よう見真似でやっている。赤い雨滴が窓を彩り、無機質な色が鈍く溢れかえる中、一体何をしているのか。自分でも異常事態の中で更に異常な行動にはしっている自覚はあった。けれど、こんな状況でなければ、宮田の寝顔が存外幼げなことも、寝ていても己より冷たく感じられるほどの体温であることも。恐らく一生かけたとしても知る由もないことだったと、牧野は思う。片割れでありながら、この悪夢の渦に引きずり込まれるまでは何一つ知らなかった彼。
    いつだったか、自分が真の求導師としての役を宛てがわれた時に、漠然とした感覚があったのだ。この行動は自分だけのものではない。何かに意図されている、と。からくり人形のように操られているわけではない。どちらかと言えば、行く先々に看板や外灯があって、緩やかに誘導されている感覚が近かった。もしかすると、彼が求導師として立っていても、この感覚に手を引かれていたのかもしれない。けれど、そう遠巻きに意識するのは落ちる時。青い、熱すらも感じない焔へ、誘われるように身を投じたその最中だけでしかない。
    「求導師としても……、兄としても、私は何一つ貴方へしてあげられる事なんて無い。いえ、貴方はそう思う私すらも疎ましく感じているのでしょうね」
    声に少しだけ、寂しさを乗せて。それでも、彼が目覚めた後の、状況の弁明も考えず。只々、言葉を重ねる。
    「けれど今だけは、このままで居させて下さい」
    ――……克昭……
    初めて音にした名前。彼の、宮田の本当の名前。二文字目に同じ字のつく、双子としての名前。自分が真の求導師として27年前の生家を訪れたからこそ、知ることの出来た事実。故に、今しか言う事が出来ない。言えば、牧野が再会してからの宮田のすること、ひいては、悪夢の3日間の大凡を覚えてことに気づかれてしまうから。そうなればきっと、今より、そして記憶を持っていない"本来"以上に距離が遠ざかるに違いない。だから、牧野は今回嘘をついた。雨滴の垂れる窓のように、じわりとした赤い嘘を。
    一際強まった雨音に、膝の上の彼が僅かに表情を顰めたようだった。

    MonochromeActor’s



    2017/12/16