Short story

    「……――」
    私は、彼の名前を呼んだ
    自分と彼の二人しか居ない、静かな部屋で反響するように声は通った
    こざっぱりとして、けれど落ち着く彼の部屋で、私は彼を見る
    ベッドに横になり、穏やかに眠っている彼を
    「――」
    もう一度名前を呼ぶ
    顔を見て、吐息を聞いて、名前を呼ぶ
    それだけで心がコロコロと揺れて、嬉しいような、落ち着かないような気持ちになった
    なるべくシーツの擦れる音を立てないように、彼の上に馬乗りの姿勢を取る
    ごめんなさい、そう心の中で呟いて、私は慣れた手つきで彼の首に両手を回す
    そして、彼の首に力を込めようとする
    「……」
    こんなこと、しちゃいけないのに
    あったかくいたいだけ、なのに
    そばにいたいだけなのに
    なくしたくないのに
    私の心は嫌だと、多分叫んでいるはず
    けれども、まるで切り離されたみたいに、私の手はその行為を止めようとしない

    ――そこまで、だ
    「……!」
    彼の声が聞こえた瞬間、弾かれたみたいに、私の手は離れた
    またやってしまった。その事実に私は先程までに無かった強い罪悪感をありありと感じる
    「ごめん、なさ……っ」
    彼は私の様子を見て、これまた慣れたように上半身を起こして、私を抱きしめてくれた
    暖かい、心地良い、嬉しい。色んな気持ちや感覚がなだれ込む
    罪悪感ありきの喜び。その事実からうっすらと視線を外して、ただ甘受した
    ――こりゃまた、随分冷え切ってるな
    彼が言って、初めて気づいた、自分の冷えた体温
    自分の背中を抱きしめる左手、空いた右手が頭をぽんぽんと撫でてくれる
    いつも、彼は理由を聞いてはこない
    「……傍に、居て……! ――、お願い……っ」
    私は何を怖がっているのだろうか
    震える身体を、まるで感覚だけが共有された他人のように客観的に見つめる自分がいた
    彼は自分という存在を受け入れてくれている、傍に居てくれているはずだ
    なのに、どうして自分はそんなことを怯えてしまっているのだろうかと
    いつも考えは堂々巡りだ。わからないまま、答えは常に持ち越しされている
    彼だって、迷惑だろうに。そう思いつつも、止められはしない
    見捨てないで欲しいのに、自分から見捨てられにいく
    見捨てられたくないのに、自分から見捨てるようなことをしてしまう
    試しているのかと以前聞かれたことがあったが、恐らく違う、と思った
    自分でも、この行動心理の全容を理解しているわけではない
    けれども考えるより前に動いてしまう。明確には分からない何かを渇望して
    部屋に差し込む満月の明りが綺麗で、まるで私と真逆だと思ってしまう
    ――今日は、月が綺麗だな
    突然投げかけられた彼からの言葉に、私は驚いて彼を見上げる
    彼の表情は、涙で滲んだ視界、何よりぼんやりとした私の頭でははっきりと認識できなかった
    びっくりした。それしか考えられなかった
    自分と全く同じタイミングで同じことを考えていたことに、私は驚くしかできない
    しかし同時に私は思った。彼は私に逃げ道をくれているのだと
    彼は私より少し長生きをしているせいか、自分よりずっと賢く物知りだ
    そんな彼の話で昔こんな内容のものがあったことを思い出した
    月は古来から人を狂わせる、と
    現在の科学では、それは迷信であったと判明しているが、世の中には不可思議な現象・事象が数多く有る
    月を見ると誰でも狂う、ではなく、月があくまで条件だったら? 月にいっそ狂ってしまいたいと願っていたら?
    偽薬効果のような作用で、結果として人は月に狂ってしまっているのではないか、そう思った
    私は月の魔性に魅入られて、非生産的な行為を繰り返しているだけなのだと、暗に示してくれているのだ
    「……、っ……」
    やっぱり、優しい。言葉を噛み締めれば噛み締めるほど、強く感じた
    すり、と彼の胸に頬を寄せる。自分より暖かい体温が、トクトクと音を立てていた
    自分が奪おうとしていた温もりに、無くさないで良かったと、心の底から安堵して縋り付く
    ――あんたは疲れてるんだ、もう寝たほうがいい
    「……ん……」
    自分より幾分か大きくて、しっかりとした手に撫でられて、私ですら知らぬ間に疲弊しきっていた体は、
    その心地よさにゆるゆると意識を沈められていく
    目を閉じて、彼の手も、心臓の音も、少しずつ遠くなって
    声に出していたかどうかすら分からない中で、私は
    何度目か分からないごめんなさいを。ただ、噛み締めて、反芻した

    月酔いを醒まして

    醒めてしまったら、何かがきっと壊れてしまうけれど

    2015/12/19